ネイチャーはなぜ飽きるのか?

投稿日:2014年12月29日 更新日:

写真論

今から15年ほど前の20世紀末頃、ネイチャーフォトにのめり込んでいた時期があった。その頃の生活はといえば、土日はすべて撮影の予定で埋まっていた。何しろ自然が相手なのだから、カメラマンを待ってくれない。特に桜なんて時期が短いから、一週間でも遅れたら完全にアウト。土日しか休めないサラリーマンにとって、チャンスは年に一度しかない。もし逃したらあと一年待つしかないのだ。ゆえに撮影がすべてに優先する。当然、土日だけでそんなにたくさん回れるわけではないから、情報を収集してできるだけ効率良く回る計画を立てる。そして回りきれなかったところは翌年、またその翌年に持ち越されるのである。

ところがだいたい3年もするとおおよそめぼしいところはすべて行き尽くしてしまう。そうなるとあとは同じことの繰り返し、無限ループが始まるのだ。その頃から急に写真がつまらなくなった。年々フィルムの消費本数も減少していき、2004年頃には完全に終焉した。その頃は写真と言えばネイチャーしかなかったから、それは写真趣味の終焉をも意味する。カメラにもまったく興味がなくなり、そこから長い空白期間が始まるのである。

今になって振り返ると、ネイチャーをやめた直接の原因は「マンネリ」であったと思う。そりゃ毎年同じようなサイクルを繰り返していれば、誰だっていつかはマンネリに陥る。別に写真に限ったことではないが、マンネリこそが継続の最大の敵であると思う。どんな趣味でも常に向上を目指すのは当たり前であり、そうでなければ趣味とは言えない。ところがネイチャーの場合、年を重ねるごとに必ずしも進歩しているとは言い難いところがある。むしろ退化に思えることさえある。いわゆるスランプだ。それはなぜか?

ネイチャー写真の価値を決める要素は大まかに言うと、「被写体」「気象条件」「光線」の3つがあると思う。このうち何と言っても大きいのは被写体の良し悪しだ。それだけで全体の7割くらいを占めると言っても過言ではない。極論すれば、ネイチャーカメラマンが集まる有名撮影地に行って、朝靄とか夕焼けとかを撮れば誰だって感動的な写真を撮れちゃう。たとえば尾瀬なんてその典型だろう。自分も三度ほど行ったことがあるが、あまりに綺麗すぎてどこを切り取っても絵になる。これで良い写真が撮れなかったらその方がおかしい。誰でも簡単に良い写真が撮れる被写体という意味では、これほど便利な撮影地はないだろう。ネイチャーフォトにおいて、被写体の力というものはそれほど大きい。でも怖いのはそれを自分の実力と勘違いしてしまうこと。本当は自分の力でも何でもなく、ただ被写体に助けられているだけなんだ。美人は誰が撮っても美人に決まっている、そう言えばわかるだろう。

もちろん被写体を見つけるのも実力のうちだから、誰も知らないような自分だけの風景を見つけられればそれに越したことはない。もしかしたらそれは今までレンズを向けられたことのない最初の写真かもしれないのだ。そういうものを見つければ儲けもの。しかしこの狭い日本で自分だけの風景を見つけるなんてそんなに容易いことじゃない。ネイチャーカメラマンは行動力が旺盛だから、未知の風景を求めて日夜走り回っている。自分がいいと思った風景はすでに撮られていると思って間違いない。仮に初めてだったとしても、このインターネット時代だからあっという間に広まって手垢が付いてしまう。それに未知の風景を探し求めるなんてとても時間のかかることだから、よっぽどヒマ人じゃないとやってられないし、空振りに終わったら時間の無駄以外の何物でもない。結局、過去の経験やネット情報などを基にして無難なところに落ち着いてしまうのである。

以上述べたように、ネイチャー写真の価値は被写体選びで7割方決まる。次に必要なのは「気象条件」と「光線」だ。しかし、これはもう「運」と「忍耐」しかないんだな。いつでも行けるような近場なら、毎日通い詰めていればいつかは当たる可能性もあるだろうが、めったに行けない旅先だとまさに一発勝負、時の運でしかない。旅行中だと先の予定がずっと詰まっているのだから、理想の状態になるまで待つなんて悠長なことは許されない。だから旅先で良い写真を撮ろうなんてことはきわめて難しい。どう頑張っても地元の人間には勝てないのだ。いや、たとえ近場であったとしても毎日同じ場所に通って最高のコンディションを待つなんて忍耐の要ることは自分には絶対無理。これは性格によるんだろうが、自分は同じ場所に続けて行くことが何よりも嫌い。いくら好きな場所であったとしても、毎週続けて行くことは無理だ。それこそ飽きちゃうんだな。最低1ヶ月は開けないといけない。

ネイチャーフォトがマンネリに陥りやすい原因もこの辺にあると思うんだが、最高の条件を求めて毎年毎年同じことを繰り返していると、だんだん最初の感動がなくなってくるんだな。どんなに綺麗な風景であっても、何度も何度も見ていると慣れちゃって何も感じなくなる。だから2年目、3年目の写真が良いかというと決してそうとは限らず、最初に撮った写真を超えられないことはザラにある。これがいわゆるスランプだ。何となく無難にはまとまっているんだけど、写真に力がないんだ。やっぱり写真は感動がすべてなんだよ。感動のないところに傑作は生まれない。これが得てして苦しみの原因になる。いっそのこと、一度撮った風景は二度と撮らない方が幸せなのかもしれない。

結局、ネイチャーフォトって被写体・気象条件・光線のすべてが相手任せなんだな。自分の力でどうにかなるのは構図くらいのものだろう。いわばすべてが他力本願。その中で最高の風景をものにするには「忍耐」しかないんだ。でもこういう自分の自由にならないところでの忍耐ってただ辛いだけで、自分にはとても無理。と言うとよっぽど忍耐力なさそうだけど、そうじゃないんだ。たとえば楽器の練習とか水泳の練習とか、自分の努力でどうにかなるものはいくらでも耐えられる。できないものはできるようになるまでやればいつかできることを知っているからだ。でもネイチャーフォトはそうでないでしょ? すべてが自然任せなんだから、いつまで待っても思い通りになるとは限らないし、むしろならないことの方が多い。そういうの自分には絶対無理なんだ。だからもともとネイチャーに向いていない。写真に命でも賭けてれば別だろうけど、やりたいことは山のようにあるんだから、あるとも限らない風景を探し求めるなんて時間がもったいないと思うのだ。それこそ写真しかすることがなくなった老人が人生最後の生き甲斐として取り組むには最高のテーマなのかもしれない。

次にネイチャーフォトがしんどくなる理由として、季節に依存することが挙げられる。ネイチャーと言っても分野はいろいろあるが、基本的には植物がメインになることが多いから、どうしても植物のサイクルで動かざるを得ない。特に一番動きが大きいのは何と言っても春、そして次は秋。春は桜を筆頭に次々と花々が入れ替わり立ち替わり咲き、休む間もなく忙しい。秋もいったん紅葉が始まるとあっという間に山を駆け下ってくるから、ぐずぐずしているとすぐ冬景色になっちゃう。こうなるとサラリーマンは特に厳しい。何しろチャンスは年に一回しかないのだから、この日を逃すまいと必死になる。そうなると写真を撮ることが義務になっちゃうんだな。楽しみで写真を撮っているのではなく、「撮らなければならない」という強迫観念に突き動かされるのだ。もし撮らなければ罪悪感にさえ苛まれる。逆に夏は緑に埋もれていてパッとした風景にならないし、特に冬は植物が枯れて何も撮るものがなくなる。雪景色があるじゃないかと言われるだろうが、雪の降らない地方では冬はまったく絵にならないのだ。それなら雪国にでも行けばいいと言うだろうが、ただでさえ移動が大変になるし、雪慣れしていない人間が行くと危険なだけ。

結局ネイチャーフォトって春と秋にだけ忙しく動き回って、冬は何もすることがなくなるんだな。この季節的な繁閑がとても効率が悪くしんどい。特に冬の間何もしてないと、写真に対する興味も失せてしまうんだ。たとえば鉄道写真だと列車のダイヤは決まっているから、撮れるチャンスは一日数回、ほんの数秒しかない。だから鉄道写真は難しいと言われる。でも見方を変えれば、どんなに本数の少ないローカル線だって毎日決まった時間に必ず列車は通る。冬期運休でもしない限り、一年を通して撮影は可能だ。ネイチャーをやってるとこれはすごく羨ましいことなんだ。一年365日、行けば必ず撮れるし、たとえ失敗してもまた次のチャンスを待てばいい。でもネイチャーは一度逃すと次は一年後なんだ。だからこそ何が何でも撮らなければという強迫観念に囚われる。

最後にもう一つ、ネイチャーフォトがつまらない理由として、写真を後で見たいと思うことが少ないのだ。何のために写真を撮るかは人それぞれだし、コンテストに応募することを目的とする人もいれば、ブログに掲載することを目的とする人も多いだろう。でも一番多いのはやはり、プリントして眺めたいとか、部屋に飾りたいという目的ではないだろうか? それは写真を撮る目的として普遍的なんだけれど、自分の場合どうも後で見たいと思う写真がほとんどないんだな。プリントはおろか、PCで画像を見直すことも稀で、基本的には一度撮ったらそれっきり、撮ったことさえ忘れてしまう。それはなぜなんだろうか?

基本的にネイチャーフォトというものは「省略と強調」が王道中の王道であり、可能な限り無駄なものを排除することによって主題を強調することが良しとされる。純粋なネイチャーフォトでは人工物を一切入れてはならないという暗黙のルールがあり、人間はもちろん、道路やガードレール、電線、民家、看板など少しでも入ってはいけない。さらに自然物であっても構図上邪魔となる枝や草などは除かなければならない。その結果、極限まで無駄を削ぎ落とした情報量の少ない写真になっているのだ。そういう写真は見た目には綺麗であるけれども、見て面白いか?と言われると疑問符が付くんだな。写真を見る楽しみって、撮影時に意図していなかったものを画面内に発見することじゃないかと思う。絵画ならば意図しないものを描き込むことはあり得ないのだから、写真ならではの楽しみと言える。しかしネイチャーフォトはそういう楽しみを最初から奪ってしまっているのだ。だから後から見てもつまらない。それよりは何気なく撮った街のスナップ写真の方が雑多なものが映り込んでいて楽しいのだ。写真は情報量が多い方が面白い。それに自然も長い目で見れば変化しているとはいえ、10年や20年でそんなに変わるものではないでしょ? でも20年前の街の写真を見たら今とは全然違っているはずで、それだけでも十分楽しいんだよね。うちには15年前からのフィルムが大量に保管されているから、それをスキャンするだけでもネタには全然困らないはずなんだけど、ほとんどがネイチャーなものだから後から見ても全然つまらないんだ。だからブログに載せようという気も起こらない。

要約するとネイチャーフォトというものは、マンネリに陥りやすく、継続することに忍耐を要求され、後から見てつまらないという特性を備えている。だから飽きやすいんだ。人生の全てを写真に注ぎ込むくらいの情熱とエネルギーがないととても無理。マンネリを打破するだけのパワーがなければそこで確実に飽きる。今年は桜前線と紅葉前線を追いかけてネイチャーを推進していたが、疲れ果てた。これって15年前と同じく、「撮らなければならない」という強迫観念に囚われていることに気付いたのだ。こうなると終わりは近い。また同じ歴史を繰り返す前に、ここにネイチャー撤退を宣言しておこう。

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