現場完結主義という考え方

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先日、紅葉の写真をすべてJPEGで撮ったと書いたが、それにはちょっとした伏線があった。アサヒカメラ2018年8月号に掲載された特集「脱・風景写真のススメ」における桐野伴秋氏の記事を読んだことがきっかけである。実際には買ったんじゃなくて図書館で借りて読んだんだけれど・・(笑)

その記事の題名は「作品の仕上げはパソコンではなく、現場(カメラ)でせよ」というもので、要はRAWで撮ることを潔しとせず、すべて現場で試行錯誤しながらJPEGで作品を仕上げることにこだわるという論調である。まあこの手の論争は古くからあったもので、確か田中長徳氏もRAW撮りを否定していた気がする。もちろん賛否両論があるのは致し方ないんだけど、この手の話はどうしても精神論になりやすい。RAWで撮ると後からどうにでもなるから、光との一度限りの出会いという写真の本質に反するとかいう話になっちゃうわけだ。しかし上の記事ではもっと具体的に踏み込んで現場で作品を完成させることの意義に言及していたので、根っからのRAW信者の自分も納得するところがあった。それに感化されて自分もRAWを捨ててJPEGで撮ってみようという気になったのである。

もともと自分もJPEGでしか撮らなかったんだけど、昔はカメラが対応してなかったとか、容量が馬鹿でかくなるというのが主な理由。よほど大事なカットだけはRAWで押さえておくこともあったけど、基本的にはJPEGでしか撮らなかった。ところが2012年頃からだったろうか、ほぼ全てのカットをRAWで撮るようになった。それは当時使っていたE-620というフォーサーズの一眼レフと関係がある。その頃のフォーサーズ機には悪名高きパナの糞センサーが搭載されていて、高感度は言うに及ばず、最低感度のISO200でもノイズまみれのひどい映像だった。晴天時でもシャドウに盛大なノイズが乗るのが不快で仕方なかった。それがRAWで撮ってLightroomで現像すると嘘のようにノイズが消えることを発見して、それ以来RAWでしか撮らなくなった。このカメラにとってはJPEGなど全く使い物にならないのだ。

APS-C機に乗り換えてからもRAW撮りの習慣は変わらなかった。高感度特性はフォーサーズから比べると大幅に向上し、今となってはJPEGで十分なように思える。それでもRAWで撮り続けるただ一つの理由は、線が太くなることを嫌うからだ。一般的に言ってカメラが吐き出すJPEGの画像はLightroomのそれに比べると明らかに線が太い。線が太いというのも主観的な表現だが、要は輪郭が太いと言えばいいのだろうか、等倍で見るとLightroomのような精細感がないのである。感度を上げてノイズリダクションが働くほどノッペリした画像になり、いわゆる塗り絵画質になる。自分はそれを何よりも嫌う。あんなのは写真じゃなくて絵画だ。だからこそ常にRAWで撮ることが習慣になっているのだ。しかしそんなのは等倍で見るから気になるのであって、プリントしてしまえば全くわからないと思う。おそらくカメラのJPEG画像はプリントしたときに最も見栄えがするようにチューニングされているはずだからだ。

それを除き、RAWで撮ることのメリットは撮影時に考えることを減らせるという一点に尽きる。言い換えれば「楽」ということだ。RAWで撮っておけば露出もホワイトバランスも後からどうにでも調整できる。もちろん彩度やコントラストといった絵作りを含め、シャープネスやノイズリダクションも自由自在にかけられて後から思い通りの絵に仕上げることができる。RAWで撮っても後から変えられないものといえば、ISO感度・ピント・ブレ、この3つだけだ。撮影時にはそれさえ注意すればよく、後はすべて忘れることができるから撮影に集中できる。それがRAWで撮ることの利点のすべてと言っていい。

一方、RAWで撮ることのデメリットは何か? 一つは容量が馬鹿でかくなるということ。一般的に言ってRAWの容量はJPEGのそれに比べておよそ10倍は大きい。大まかに言えば画素数バイトにほぼ近い。つまり24Mピクセルなら24MBということだ。こんなのを一日に数百枚も撮ってるとあっという間に1GBを超えてしまう。年間で考えれば相当な容量になるだろう。2TBのハードディスクくらいはすぐに一杯になる。しかもハードディスクは永久的なものではないから、将来的にそのデータを常にバックアップしていかなければならない。データ容量は雪だるま式に増えるだろうし、バックアップのコスト(金銭的にも労力的にも)を考えるととんでもないことになる。

もう一つは当然ながら現像するのがめんどくさいということ。しかも時間がかかる。PCのスペックにもよるが、標準的なPCなら1枚当たり30秒くらいは要する。それが数百枚ともなると1時間以上かかってしまう。また撮った写真をすぐSNSにアップしたいと思っても、RAWだといちいちカメラ内現像なんてやってられないから、結局はJPEGでも撮らなければならない。さらには新しい機種が出るたびに現像ソフトも更新しなければならない。つまり金がかかる。Adobe CCを使っている人はいいけれど、それ以外は金を出してアップデートするか、DNGコンバータでいちいち変換しなければならない。RAWというのはJPEGみたいな汎用フォーマットじゃないから、将来にわたって維持し続けることが大変なんだよ。

しかしそれを置いても最大のデメリットは何か? それは「写真がつまらなくなる」ということである。人間は楽をすればするほど馬鹿になる。これは疑いようのない真理。つまりRAWで撮っていると頭を使わなくなっちゃうんだ。RAWで撮ってるときって、後からどうにでもなると思って露出やホワイトバランス、下手をするとシャッタースピードもISO感度も確認せずに撮ってしまうことが多い。要するに何にも考えてないんだ。ただシャッターボタンを押すだけの機械的な作業と化してしまう。それが楽しいだろうか? フィルム時代のことを思い出してほしい。リバーサルで撮る時って、露出がシビアだから絶対失敗しないように入念に光を読んで露出を設定する。もちろんそれはかなりの経験と熟練を要する。場合によっては少しずつ露出をずらして複数枚撮影することもある。そしてシャッタースピードは問題ないか、ピントは確実かを入念にチェックした上で細心の注意を払ってシャッターを切る。リバーサルで撮るということはやり直しの効かない一発勝負であったから、そこには心地良い緊張感が伴う。しかしRAWで撮っているとそんな緊張感は皆無である。だから写真がつまらなくなるのだ。

もちろん結果を求められるプロはRAWで撮れば良い。しかしアマチュアは結果よりも写真を撮るという過程そのものを楽しむべきではないか? 前から事あるごとに言っているように、アマチュアカメラマンのほとんどは成果としての写真よりもカメラを買うことが目的なんだよ(笑)。写真なんて新しいカメラを買うための口実に過ぎない。それは結局、新しいカメラを買って操作することを楽しみたいからでしょ? つまり結果よりも写真を撮るというプロセスを楽しみたいわけ。そこをRAWで撮ってしまうとその楽しみのほとんどは失われるんだ。

だって最近のカメラにはピクチャースタイル(いわゆる仕上がり設定)だけでなく、ハイライト・シャドウ補正、輪郭強調、回折補正、HDR、アートフィルターなどたくさんの機能があるけれど、そのほとんどがRAWでは使えない。たとえばPENTAXのカメラには「みやび」「銀残し」と言った面白いスタイルがあるけれど、RAWで撮ってしまうとそれらは一切反映されない。よくメーカーごとの絵作りの違いということも言われるけれど、それはJPEGで撮った場合の話であって、RAWで撮ってしまうとどこのメーカーであろうと良くも悪くもLightroomの絵にしかならないわけだよ。もちろんLightroomのプロファイルを適用すればカメラの絵作りをシミュレーションできるじゃないかという反論もあるだろうが、それはあくまでも模倣に過ぎないわけでカメラ本来の絵とは異なる。フィルムシミュレーションなんてのもあるが、それなら初めからフィルムで撮れば良いじゃないかという議論と本質は同じだと思う。

つまりRAWで撮るということは、カメラが持っている機能の半分も使わないということであり、カメラ本来の個性も捨てるということに他ならない。結局はLightroomの絵になってしまうのなら、わざわざ新しいカメラを買わなくていいじゃないか? これはカメラの機能を使って操作することを楽しむという趣味性と矛盾する。新しいカメラを買いたいだけの人にはカメラを買う口実がなくなるわけだよ(笑)。

しかしJPEGで撮ればカメラの持っている機能の全てを使いこなして作品を完成させる楽しみが生まれる。そのカメラでしか得られない味を引き出すこともできる。記事中の桐野氏によると、ピクチャースタイルを選ぶだけでなく、彩度やコントラストに至るまで詳細設定をその場で納得できるまで試すという。それは極めて知的な作業と言えるだろう。撮る過程を楽しむという意味ではこれほどふさわしいことはない。趣味というものは手間をかけるほど楽しいんだ。効率だけを追い求めるなら、それはもはや趣味ではなく仕事だ。JPEGで撮るということはリバーサルで撮るのと同じ一発勝負の緊張感がある。もちろん保険にRAWで撮っておくなんて姑息なことをしてはいけない。やり直しの効かない一発勝負だからこそ、その一枚に魂を込められるわけだ。

こういうことを言うとRAWで撮って後からPCで調整しても結果は同じだろうと屁理屈を言う人もいるだろう。しかしこれは違うんだ。記事の中で桐野氏も言っているけれど、RAWで何も考えずに機械的に撮った写真は記憶に残らないんだよ。何を撮ったか、どんな状況だったかなんて案外覚えてないでしょ? しかし現場であれこれ考えて試行錯誤した写真は必ず記憶に残る。現場を離れてPCのモニター上であれこれいじってみてもそれは机上の空論に過ぎない。現場で感じたことをその場で試すことに意義があると言っている。それは自分もなるほどなと思った。これはフィルム時代には無理な話で、デジタルカメラだからこそできるわけだしね。

そしてもう一つ、JPEGで撮ることの意義は「偶然性に期待する」ということである。最後に本文を引用しておこう。この部分に著者の言いたいことが最も良く表れていると思う。

桐野さんの作品は、絵画のようにも見える幻想的な色使いで知られるが、絵画と写真は「偶然性」において、決定的に異なるという。その偶然性を取り込むことに写真本来の姿があると語る。
「なんだかわからないけれど、何かを感じるからシャッターを切っていく感覚。意識的にシャッターチャンスをねらっていくというよりも、撮っていくうちに自分自身が気づかされるような一枚に出合うことが多いですね。『いまがいいから撮ろう』『もう、よくなくなった』とか、思い込まない、決めつけないということです。現場の光とかが偶然に写真を生み出してくれる。『自分がそこに行って、自分が撮っているんだ』という意識ではなく、『案内人のようにカメラをそこに持っていって、シャッターを切る』という感覚も必要じゃないかな」

カメラの設定をいじっているうちに、偶然「これはいいな」と思える出会いがあるかもしれない。つまり背面モニターに映し出された映像を見て初めてその面白さに気付くわけだ。これはもちろんフィルムカメラではあり得なかったことなんだけど、デジタルカメラではこういうことってよくあるんじゃないか? 例えば先の紅葉の写真だって、普通にRAWで撮っていたらあんなにたくさん撮らなかったと思う。普段見慣れた場所だし、取り立てて風光明媚でもないから10カットほど撮って終わりということになっただろう。しかしたまたまVividで撮ってみたら見た目以上の鮮やかさに目を奪われ、平凡な風景がとても輝いて見えた。そこからどんどんイメージが膨らんでいって光と戯れながら100カット以上も撮ってしまったわけだよ。やっぱり現場でいろいろなスタイルを試してみるからこそ偶然に生まれる作品ってあると思う。

全てをJPEGで撮れというのは極論かもしれない。やっぱり二度と行けないような場所だとRAWで撮ってしまうだろう。しかし趣味としてカメラを楽しむならば、できるだけ現場で作品を完成させるという意識を持って、カメラの機能を使いこなすことが大切だと思うのである。