旅写真は途中にこそ意味がある

投稿日:2012年9月16日 更新日:

旅写真


奄美大島・宇宿 2005年11月 PowerShot S60

過去に撮った写真のストックからネタを拾い出そうとしているのだが、使えそうな写真がまったくと言っていいほどない。それはなぜか?


誰でも旅に出たら写真を撮りたくなるものだが、自分の場合、その撮り方が極端だったのだ。つまり名所旧跡とか絶景ポイントばかりで撮っていて、その「途中」が完全に欠落しているのである。本来、旅というものは家を出てから帰るまですべてが旅のはずである。しかし途中を省略して景勝地の写真ばっかり撮っていれば、それは単なる絵葉書写真に過ぎない。かつてのネイチャー至上主義がそうさせたのだが、極論すれば風景写真など撮る必要はないと言える。景勝地の写真は必ず誰かが撮っているからである。わざわざ自分で撮らなくてもネットを探せばいくらでも出てくるだろう。それよりも自分が旅で体験したことのすべて、たとえば乗り物とか食事とか出会った人とか、そういうものを記録することが誰にも真似のできない「自分だけの旅」の表現になるのである。つまり、旅の写真とは目的地ではなく、その途中にこそ意味があるのだ。自分はそれに気づくのがあまりにも遅すぎた。

現在、1985年頃からの旅の写真が優に数千枚以上はあるが、そのすべてが使えない。特にフィルムで撮っていた頃は徹底していて、「絶景以外は撮らない」という不文律があった。つまらないものを撮るのにフィルムを使うのはもったいないと考えていたからだ。だから撮った写真といえば名所の「超つまらない」写真ばっかりだ。昔はつまらないと思っていた写真こそ、今見ると味わいがある。逆に最も価値のない写真はネイチャーだ。そのつまらないネイチャー写真を必死になって追いかけていたのだから呆れてくる。


奄美大島・古仁屋 2005年11月 PowerShot S60

2003年頃からデジタルカメラを使い始めて、フィルムと併用するようになった。もちろんメインはフィルムで、デジタルは単なるメモだ。その頃からちょっとした合間の写真をコンデジで撮るようになったのだが、一番印象に残っているのはフィルムで撮った絶景ではなく、バスを待っている間にちょっと撮った風景とか、ふらっと入った大衆食堂だったりする。そういった何気ない一コマにこそ旅情を感じるものだが、残念ながらフィルム時代のものはまったくと言ってよいほど残っていない。デジタルカメラを使い始めてからもその傾向はあまり変わらず、やはり「こんなつまらないもの撮ってどうするのか?」と撮る前に自問自答してしまう。だから自分の写真には旅の印象が残らない。

そういうことに気づいて意識的に途中の写真を撮り始めたのはほんの2~3年前のことだから、それより前の写真はまったく公開するに値しない。いま書いていて思い出したのだが、実は以前も同じことをやろうとして頓挫した記憶がある。ことごとく使える写真がなかったのだ。だからすぐネタ切れになった。ストックが何千枚あろうとまったく関係ない。そのすべてが使えない。今になってみればどうでもいいゴミみたいなものだ。一度失敗したことをもう一度やろうとしたのだから学習能力がまったくない。この路線は初めから頓挫している。やはりこういうものは現在進行形でやらないといけないだろう。

ここで載せた2枚の写真は2005年に奄美大島を訪れたときのもの。リバーサルフィルムで3本ほど撮ったと思うが、すべてがどうしようもなくつまらない写真ばっかり。ただ海が写ってるだけとか、木が写ってるだけとか、それだけの写真だ。極論すればどこで撮ったのかもわからない写真だ。今見返しても何の感動も沸いてこない。それよりはちょっとした合間にコンデジでサクッと撮った写真の方に、その時の印象がはっきり残っているものなのだ。

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